JSTなど、シナプスが外部刺激で情報伝達効率を調節する新分子機構を解明  [2012/05/11]
科学技術振興機構(JST)と東京大学は5月11日、マウスやラットを用いた実験により、神経細胞が外部からの刺激に応じて情報伝達効率を調節する新しい分子メカニズムを解明したと発表した。

成果は、東大大学院医学系研究科の尾藤晴彦准教授と奥野浩行助教らの研究グループによるもの。JST課題達成型基礎研究の一環として行われたもので、研究の詳細な内容は、5月11日付けで米科学雑誌「Cell」に掲載された。

記憶は、脳の神経細胞同士の情報伝達の場である神経細胞の「シナプス」での情報伝達効率の変化により保存されているが、その変化は通常、数分から数時間で消失してしまう(短期記憶)。

シナプスとは、神経細胞と神経細胞との接合部及び情報の伝達部位のことである。送り手側の神経細胞はシナプス前部において「グルタミン酸」などの神経伝達物質の放出し、受け手側の神経細胞はシナプス後部にある受容体などで神経伝達物質を受け取ることにより細胞間の情報伝達を行う仕組みだ。

しかし、ヒトは、日常で起こった出来事や学習によって得られた知識を、長い間覚えておくことも可能だ。強烈な経験や何度も同じ経験をすると、特定のシナプスに高頻度で入力が起こることから、情報伝達効率の変化は数日以上の長期にわたって維持され、長期記憶が形成されることが理由である。

これは、神経細胞が外部からの刺激に応じて、シナプスの性質を長期的に変化させるためだ。このような長期的なシナプスの性質変化は、「長期シナプス可塑性」と呼ばれる。こうした仕組みは、脳の柔軟性や記憶の形成・保持に必要であると考えられている。神経細胞が状態を変化させる性質を持っていることが、それまでは記憶していなかった事柄を新しく記憶することを可能にするのだ。

これまでの研究により、シナプスの長期変化には、神経細胞の細胞体で新規遺伝子の発現が必要なことが明らかとなっている。しかし、神経活動によって発現された遺伝子の産物であるタンパク質が、細胞のどの部位でどのような方法で働くことにより、神経細胞の性質を調節し変化させているのか、長期シナプス可塑性に関与しているのかについてはわかっていなかった(画像1)。


画像1。シナプス活動によって引き起こされる遺伝子発現

今回の研究では、ラットの脳から取り出して培養した「初代神経培養細胞」や遺伝子改変マウスを材料にして、生化学的手法や蛍光ライブイメージング、大脳組織染色法などの多様な手法を組み合わせた解析が行われた形だ。

シナプス活動によって引き起こされた新規遺伝子の発現により、タンパク質「Arc」が合成されることはすでに知られていたが、今回の研究では、Arcが細胞体からシナプスへ至る動態を世界で初めて解析された。

その結果、Arcは従来考えられていたように活動性の高いシナプスへ選択的に集積されるのではなく、逆に活動性の低いシナプスへ運ばれ集積されていることが明らかになったのである。

さらに、このArcのシナプス集積は別のシナプス・タンパク質である「カルシウムカルモジュリンキナーゼII」のβ型(CaMKIIβ)によって担われていることも明らかとなった。カルシウムカルモジュリンキナーゼIIは、カルシウムと「カルモジュリン」が結合することによりキナーゼ活性が上昇するキナーゼファミリーの1つだ。いくつかのサブタイプが存在するが、神経細胞ではα型とβ型が主要な役割を担っていると考えられている。

このCaMKIIβを介したArcの不活性シナプスへの集積度は、大脳の主要な興奮性の伝達に関わる「AMPA型グルタミン酸受容体」のシナプス発現量と逆相関することも明らかになった(画像2)。これは、Arcの集積したシナプスは神経伝達物質に対する感度が低下する、つまり情報に対して「鈍く」なっていることを示唆する。

なおAMPA型グルタミン酸受容体とは、シナプス後部の膜表面においてグルタミン酸を受け取るイオンチャネル型の受容体の1種だ。神経細胞における細胞興奮性活動を引き起こす主要な構成因子である。

画像2は、神経細胞の樹状突起でのArcタンパク質の発現量とAMPA型グルタミン酸受容体の膜表面での発現量を、多重抗体蛍光染色法を使って比較したもの。シナプスでのArcの量が多い場合には膜表面にあるグルタミン酸受容体の量が少なく、逆に、Arcの量が少ない場合にはグルタミン酸受容体の膜発現量が多いことが明らかになったのである。


画像2。シナプスに集積したArcはグルタミン酸受容体の量を減少させる

さらに、一部のシナプスにのみ長期的な変化を引き起こした際のArcの働きも調べられた。その結果、Arcは長期増強が起こっているシナプスを避けて、むしろ周りの活動性の低いと考えられるシナプスに集積するという現象が明らかになったのである(画像3)。

つまり、増強されたシナプスはArcの影響を受けずに強化されたままで残り、一方、活動性の低いシナプスでは意図しないシナプス増強などを防ぐことができるというわけだ。このようにシナプス間でメリハリをつけて、特定の記憶だけが長期記憶となることが判明した形だ。

画像3は、緑色蛍光タンパク質GFPと融合したArcの動態を神経細胞の樹状突起にて観察したもの。長期増強刺激で発現誘導されたArcは強化されたシナプスにはあまり集積せず、むしろ、活動性の低いシナプスに集積することが明らかになった。

画像3。長期増強刺激によって合成されたArcは増強されたシナプス以外のシナプスにより多く集まる

これまで、脳の長期記憶に関するメカニズムとして確認されていたのが、強い刺激を受けたシナプスの伝達効率を選択的に増強する方式の1つである「シナプスタグ方式」だ。これは、長期的に情報を蓄えるべきシナプスを情報とは関係のないシナプスから見分けるための標識(タグ)が存在し、このタグがあるシナプスにだけ情報保持に必要なタンパク質が集められていくという説である。

もう少し具体的に説明すると、刺激を受けたシナプスはシナプスタグによって標識され、シナプス増強に必須なタンパク質は標識されたシナプスに補足され機能することにより、シナプス選択的な変化が引き起こされるというものだ。

今回は、シナプスタグ方式とは逆に情報を伝える必要のないシナプスにArcタンパク質が集まることから、シナプスタグとは別の性質を持つタグ、すなわち「逆シナプスタグ」が存在すると推察された。脳ではこのような巧妙な分子メカニズムによって選択的に長期記憶の形成が調節されていると考えられるのである。

Arcの不活性シナプスへの選択的集積は、これまでまったく知られていなかった新しい動態制御の仕組み(画像4)だ。シナプスタグ方式と合わせて、今後、記憶・学習の分子メカニズムを解明する上で基本的な概念となるものと思われるという。

画像4は、Arcのシナプス集積とグルタミン酸受容体除去を表した模式図だ。長期増強を引き起こすような強いシナプス刺激を受けると、細胞体ではArcの発現誘導が起こる。Arcは不活性化型のCaMKIIβサブユニットに結合することにより、活動性の低いシナプスに選択的に集積していく。

この集積したArcはシナプス膜表面にあるAMPA型グルタミン酸受容体を「エンドサイトーシス」(細胞が細胞外の物質を取り込む過程の1種のこと)により細胞内に取り込む。このようなメカニズムがあれば、増強されたシナプスはArcの影響を受けずに強化されたままで残り、一方、活動性の低いシナプスは意図しないシナプス増強などを防ぐことができる。脳ではこのような巧妙な分子メカニズムによって長期記憶の形成が調節されていると考えられるというわけだ。


画像4。Arcのシナプス集積とグルタミン酸受容体除去

グルタミン酸受容体は大脳の主要な興奮性の伝達に関わるイオンチャネルであり、この機能や制御の破綻によりさまざまな神経・精神疾患が引き起こされることが最近の研究により明らかになってきた。

今回発見したArcタンパク質とCaMKIIβの相互作用はグルタミン酸受容体をシナプス部位において直接調節する分子機構であることから、この相互作用を標的とする新しいタイプの精神・神経治療薬の開発などにつながる可能性があると、研究グループはコメントしている。