2013年7月26日
独立行政法人理化学研究所
記憶の曖昧さに光をあてる
-誤りの記憶を形成できることを、光と遺伝子操作を使って証明-
ポイント
脳神経細胞ネットワークに保存された記憶は人為的に再生できる
過誤記憶(誤りの記憶)をオプトジェネティクス(光遺伝学)によって人為的に形成
事件の目撃証言などの脆弱性に警鐘
要旨
理化学研究所は、マウスを使い記憶の内容を光で操作することにより、過誤記憶[1]が形成されることを初めて実証しました。これは、理研脳科学総合研究センターの利根川進センター長(米国マサチューセッツ工科大学 RIKEN-MIT神経回路遺伝学センター教授)と、RIKEN-MIT神経回路遺伝学センター利根川研究室のステイーブ ラミレス(Steve Ramirez)大学院生、シュー リュー(Xu Liu)研究員、ペイアン リン(Pei-Ann Lin)、 ジャンヒュップ スー(Junghyup Suh)研究員、マイケル ピナッテリ(Michele Pignatelli)研究員、ロジャー レドンド(Roger L. Redondo)研究員、トーマス ライアン(Thomas J. Ryan)研究員らの研究チームによる成果です。
過去に起こった一連の出来事を思い出すとき、私たちの脳は断片的な記憶を集めてその一連の出来事を再構築します。しかし、記憶を思い出すときに、その一部を変化させたりすることが往々にしてあり、不正確な記憶が思いもよらない影響をもたらすこともあります。例えば、米国では、事件捜査にDNA鑑定が導入されたことで、冤罪(えんざい)が晴れた最初の250人のうち、約75%は誤った目撃証言による被害者だったというデータがあります。これは、過誤記憶がもたらした結果といえますが、過誤記憶の実体については明らかにされていませんでした。
研究チームはこれまでに、マウス脳を用いて、記憶を保存する特定の脳細胞群を光感受性タンパク質で標識し、その細胞群に光をあてることで、脳に保存されている特定の記憶を思い出させることに成功しています。さらに研究チームは、最先端の光遺伝学(オプトジェネテイクス)[2]技術を用い「過誤記憶がどのように形成されるのか」という謎の解明に挑戦しました。
実験では、まず、安全な環境であるA箱の環境記憶痕跡(エングラム)をマウスの海馬[3]に形成させ、光感受性タンパク質で標識しました。次に、このマウスを異なった環境のB箱に入れ、A箱の環境記憶を思い出させるためにこの細胞群に光(ブルーライト)をあてると同時に、マウスが嫌がって恐怖反応(すくみ)を示す弱い電気刺激を足に与えました。すると、電気刺激とA箱のエングラムが結びついて、このマウスはその後安全なA箱に入れても恐怖反応(すくみ)を示しました。さらに、A箱のエングラムに対応した細胞群を光刺激しただけで、恐怖反応(すくみ)が生じることを発見しました。これにより、安全なA箱のエングラムは、恐怖と一緒になった別のエングラムへと再構成されたことが明らかになりました。
今回の研究成果は、ヒトが“どのように”そして“なぜ”過誤記憶を形成するのかという課題に対する新たな理解に道筋を与えるものといえます。
この研究は理研脳科学総合研究センターと米国ハワードヒューズ医学研究所の支援を受けて行われ、成果は米国の科学雑誌『Science』オンライン版(7月26日付け:日本時間7月27日)に掲載されます。
背景
私たちの記憶は、神経細胞の集まりに蓄えられます。これを記憶痕跡(エングラム)と呼びます。私たちが一連の出来事を思い出すとき、脳は断片的な記憶を集めて過去を再構築します。しかし、まさに記憶を思い出すときに、その一部を変化させたり変形させたりすることがあります。そのため、外部からの影響で記憶があてにならなくなったり、不正確な記憶が思いもよらない影響をもたらしたりする可能性も十分あります。例えば、米国で事件捜査にDNA鑑定が導入されたことで冤罪が晴れた最初の250人のうち、約75%は誤った目撃証言による被害者でした。
ヒトを対象にして、行動学やfMRI(機能的核磁気共鳴映像法)[4]を用いて行った研究では、過誤記憶の形成に海馬の亜領域のどの神経回路が関わるかを明らかにすることができませんでした。
研究チームはこれまでに、マウス脳を用いて、記憶を保持する脳細胞群を光感受性タンパク質で標識し細胞群を光で刺激することで、脳に保存されている特定の記憶を思い出させることに成功しています注。この実績を基に研究チームは、過誤記憶の形成の解明に挑戦しました。
注)プレスリリース :2012年3月23日
研究手法と成果
研究チームは、海馬のエングラムを保持する細胞を操作することによって、遺伝学的に改変したマウスに過誤記憶を形成させようと試みました。
まず、安全なA箱の環境を記憶する神経細胞群に注目し、光(ブルーライト)の照射でこれらの細胞が活性化するようにしました。次に、まったく異なる環境のB箱にこのマウスを入れ、A箱の環境記憶を活性化するべく光を照射しました。同時に、マウスが嫌がって不快反応を示す弱い電気刺激を足に与え、光で活性化したA箱の環境記憶と電気刺激の恐怖の間の関連付けを形成させます。つまり、マウスはB箱でのみ電気刺激を受けたにもかかわらず、そのときにA箱の環境記憶が思い起こされたために、それが電気刺激と関連付けられたわけです。
このような経験をしたマウスを、これまで電気刺激を経験したことのないはずのA箱に戻すと、マウスは恐怖反応(すくみ)を示すことを研究チームは発見しました。さらに、このマウスを全く別の環境に置いても、人為的に恐怖と関連付けられた海馬の神経細胞群を光で活性化すれば、意のままに偽りの恐怖記憶を呼び起こせることを発見しました。
この過誤記憶の呼び出しには、自然な恐怖記憶の呼び出しに使われるのと同じ脳内の領域(扁桃体など)が使われることも分かりました。「過誤記憶の呼び出し」で活性化される領域は「真の記憶呼び出し」で活性化される領域と区別できませんでしたので、マウスは「過誤記憶」を「真の記憶」のように感じたと考えられます。
今後の期待
本研究を通じて利根川進教授は、「ヒトは高度な想像力を持った動物です。本研究のマウスと同様に、私たちが遭遇する“嫌な”あるいは“快い”出来事は、そのときまでに獲得した過去の経験と関連付けられる可能性があり、それで過誤記憶が形成されるのです」と述べています。
また、ステイーブ ラミレス大学院生は、「このような実験は記憶の過程がどれほど再構成可能なものか示してくれます。記憶とは、私たちが経験してきた世界の単なるコピーではなく、再構成が可能なのです。私たちは、どのように過誤記憶が形成されるのか神経回路レベルでの説明を提案することで、目撃証言などがいかにあやふやである可能性が高いかを伝え、このような知見が法廷などでも生かされることを望んでいます」と述べています。
今後、本成果を基にヒトにおける過誤記憶の理解が進めば、事件の裁判における目撃証言の脆弱性の警鐘となると期待できます。
原論文情報
Steve Ramirez, Xu Liu, Pei-Ann Lin, Junghyup Suh, Michele Pignatelli, Roger L. Redondo, Thomas J. Ryan, and Susumu Tonegawa. "Creating a false memory in the hippocampus".Science, 2013
発表者
独立行政法人理化学研究所
脳科学総合研究センター
センター長 利根川 進 (とねがわ すすむ)
RIKEN-MIT神経回路遺伝子学センター(CNCG)教授
お問い合わせ先
脳科学研究推進室
Tel: 048-467-9757 / Fax: 048-467-4914
補足説明
過誤記憶
英語の概念「False Memory」の日本語への訳語の1つ。同語のもう1つの訳語「虚偽記憶」に比べると、過去のエピソード記憶を叙述するクライエントに「嘘をつく」といった悪意がなく、「誤った記憶」を述べてしまったとするもの、という語義を持つ。
光遺伝学(オプトジェネテイクス)
光を意味するOptoと遺伝学を意味するgeneticsを合わせた言葉。神経回路機能を光と遺伝子操作を使って調べる研究分野。ミリ秒単位の時間的精度を特徴とする。2005年に発表され神経科学の革命と言われた。
海馬
大脳側頭葉の内下部にあり、両側を合わせた形がギリシャ神話の海神がまたがる海馬に似ていることからこの名称がついた。経験記憶の形成と保存に役割を発揮する領域で、両側を破壊すると記憶障害が起きる。
fMRI(機能的核磁気共鳴映像法)
外部からの刺激や、行動課題を行うことによって活動した脳の様子を画像化する方法で。非侵襲的に脳の活動状態を観測することができるので、ヒトの脳の高次機能解析に利用される。
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記憶のあいまいさができる理由(提供 Collective Next)
図1 記憶のあいまいさができる理由
左:安全な青い箱を記憶した神経細胞を光感受性タンパク質で標識。
中:赤い箱の中で、青い箱の記憶を光刺激で読み出し、足には電気刺激を与える。
右:青い箱に戻すと、怖がる(過誤記憶の証拠)。