2013年10月3日
独立行政法人理化学研究所
脳発達過程における「臨界期」開始の新理論を提唱
-神経細胞の自発的活動の抑制で臨界期に至る脳の発達を説明-
ポイント
脳形成の神経活動が内部から外部由来に切り替わって臨界期が開始
従来の理論では解決できなかった臨界期開始前の現象も説明可能に
いまだ明らかになっていない脳の発達過程を説明できる基本原理の可能性
要旨
理化学研究所(理研、野依良治理事長)は、脳が経験などによって変化しやすい「臨界期」と呼ばれる発達段階の開始を抑制性神経細胞からの入力の増強と関連づけて説明する新しい理論を提唱しました。これは、理研脳科学総合研究センター(利根川進センター長)神経適応理論研究チームの豊泉太郎チームリーダー、神経回路発達研究チーム(当時)宮本 浩行研究員、杉山(矢崎)陽子研究員、Nafiseh Atapour研究員、Takao K. Henschチームリーダー、コロンビア大学のKenneth D. Miller教授らの研究成果です。
ヒトをはじめとする高等生物の脳の発達過程において、環境や経験によって脳神経回路がとりわけ大きな影響を受ける時期を「臨界期」と呼びます。過去の実験結果から、視覚に関する臨界期の開始には神経活動を抑える抑制性神経細胞からの入力の増強が重要と考えられています。しかし、その詳細なメカニズムについてはまだ明らかになっていません。従来提案されていた仮説は臨界期の開始は説明できますが、臨界期開始前に起こる経験に依存した脳神経回路の組み替えを十分に説明できるものではありませんでした。
そこで、研究チームは、臨界期がどのように始まるかを説明する新しい理論の構築に取り組みました。臨界期開始前の発達初期段階では、脳神経回路は、外部からの刺激に依存しない自発的な神経活動によって形成されます。しかし、成長に伴って環境や経験などの外部からの刺激の影響を受けて脳神経回路の形成が進むようになります。この発達過程と臨界期開始の関係はこれまで知られていませんでした。研究チームは、過去の研究知見を参考に検討した結果、抑制性神経細胞からの入力が増強すると脳神経回路の自発的活動が低下し、環境や経験といった外部由来の感覚刺激に応じた神経細胞の活動が脳神経回路の組み替えを決定するようになり、この切り替わりをきっかけに臨界期が始まるという理論を提唱しました。
この理論を裏付けるために、遺伝子改変マウスを用いた電気生理実験を行ったところ、臨界期開始時の抑制性神経細胞からの入力の増強が視覚野の神経細胞の自発活動を選択的に減衰させることを示しました。
今回の理論では、抑制性神経細胞からの入力の増強に伴う臨界期の開始ばかりでなく、従来の仮説では説明が難しかった臨界期開始前の視覚経験に応じた脳神経回路の組み替えも同時に説明できます。さまざまな脳機能に関わる臨界期が脳の自発的な活動の低下に伴って連鎖的に起こるとすると、これによって脳の持つ階層構造の発達が説明できる可能性があります。また、臨界期開始のメカニズムを解明し脳の発達過程を理解することは、将来のより効率の良い教育プログラムの提言へつながると期待できます。本研究成果は、米国の科学雑誌『Neuron』に掲載されるに先立ち、オンライン版(10月2日付け:日本時間10月3日)に掲載されます。
背景
私たちの脳は、数百億個以上の神経細胞同士がつながり合って複雑な脳神経回路を構成しています。この複雑な脳神経回路は、遺伝情報を基にある程度作られた後、脳の自発的な神経活動や環境からの刺激によってより精巧な回路へと発達します。特に、ヒトを含む高等生物の発達段階において、脳の働きが環境や経験、学習によって変わりやすい時期があり、それを「臨界期」と呼びます。臨界期は、環境からの刺激に応じて神経回路の再編、組み替えが最も強く見られる時期です。例えば、臨界期中の動物において片方の目を継続的に閉じておくと、それに対応する神経細胞の反応が減衰するため、閉じていた目は見えづらくなります。しかし、臨界期後に同様な実験をすると、閉じていた目でも物を見ることができます。
感覚や言語、運動など、さまざまな脳の働きに対応して複数の臨界期が存在し、関連した機能の臨界期は連鎖して起こることが知られています。特に臨界期を開始するメカニズムを解明することは、さまざまな脳機能とその発達を理解する上で重要な手掛かりとなります。
神経細胞に刺激が入ってきたとき、刺激を電気信号に変えて他の神経細胞へ伝えることで情報伝達が行われ、これが多数の神経細胞間で繰り返し起こることで脳が機能しています。神経細胞は興奮性と抑制性の2種類に大別され、お互いがバランスよく制御し合うことで適切に機能を維持しています。過去のさまざまな研究から、臨界期の開始には抑制性神経細胞が成熟し、抑制性神経細胞からの入力が増強することが重要と考えられています。例えば、視覚に関する臨界期が始まる前の幼弱なマウスに特殊な薬剤を投与して抑制性神経細胞からの入力を増強すると、臨界期の開始が早まることが報告されています。また、抑制性神経細胞からの入力の弱い遺伝子欠損マウスや暗室飼育によって抑制性神経細胞が未成熟のマウスでは、臨界期が始まりませんが、薬剤で抑制性神経細胞からの入力を増強すると臨界期が始まるという実験報告があります。
では、抑制性神経細胞からの入力の増強がどのように臨界期を開始させるのでしょうか。その疑問に対していくつかの仮説がありました。しかし、近年の実験報告から臨界期開始前でも経験に応じた脳神経回路の組み替えが起こることが発見され、既存の仮説ではこの現象を十分に説明できませんでした。そこで、研究チームは、過去の知見を参考に抑制性神経細胞からの入力の増強が視覚野の臨界期を開始させるメカニズムについて新たな理論を提唱し、動物実験によってその理論を裏付けることに挑みました。
研究手法と成果
研究チームは、発達の初期段階において抑制性神経細胞からの入力の増強が脳神経回路の組み替えをつかさどる信号を内部由来の自発的活動から外部由来の感覚刺激に対する応答に切り替えることで、臨界期が始まるという理論を提唱しました。神経回路モデルの数学的解析と計算機シミュレーションの結果、この理論が抑制性神経細胞からの入力の増強による臨界期開始を説明するばかりでなく、従来の仮説では説明の難しかった臨界期開始前の視覚経験に応じた脳神経回路の組み替えも統一的に説明できることを示しました。今回提唱した理論の具体的な内容は以下の通りです(図1)。
自発的活動低下による臨界期開始
網膜から1次視覚野への経路にある神経細胞は、視覚刺激が無くても常に活動し、1次視覚野へ自発的な入力を送っている。1次視覚野において、視覚刺激に対する応答に比べて自発的な入力に対する応答が十分に大きければ片目を継続的に閉じても左右の目のバランスは保たれる。しかし、視覚刺激に対する応答が自発的な入力に対する応答に比べて十分大きくなると左右の目のバランスが崩れ、閉じていた目に対する視覚応答が減衰する。
抑制性神経細胞からの入力の増強による自発的活動低下
1次視覚野への自発的な入力は低強度・高頻度であり、視覚刺激に依存した入力は高強度・低頻度である。臨界期開始時に抑制性神経細胞からの入力が増強すると、視覚刺激に対する強い神経応答は影響を受けないが、自発的入力に対する弱い神経応答は抑制されて、脳神経回路の組み替えに寄与しなくなる。
臨界期開始前の実験事実の再現
片方の目を継続的に閉じた場合、閉じた目のまぶたを通して入る光刺激は解像度が低く、正常な視覚系の発達を阻害する。臨界期開始前には1次視覚野への自発的な入力の効果で、片方の目を継続的に閉じた場合でも左右の目のバランスは維持される。しかし、閉じた目のまぶたを通して入る低解像度の光刺激のため、両目とも解像度の発達が遅れる。
また、この理論を検証するために、抑制性神経細胞からの入力の弱い遺伝子改変マウスを使った電気生理実験を行いました。このマウスは、通常臨界期が開始しませんが、薬剤によって人為的に臨界期を開始できることが知られています。1次視覚野の神経細胞に対し自発的入力および視覚刺激への応答をそれぞれ計測した結果、臨界期開始時の抑制性神経細胞からの入力の増強によって、神経細胞の自発的活動が視覚刺激への応答に比べ顕著に低下しました(図2)。この結果は抑制性神経細胞からの入力の増強によって自発的入力が脳神経回路の組み替えに及ぼす影響が低下するという理論予想と整合します。
今後の期待
感覚や運動などに関するさまざまな脳機能に関連した臨界期があり、単純な機能から複雑な機能へ対応する臨界期が連鎖して開始することが知られています。本研究から類推できる仮説として、抑制性神経細胞からの入力の増強によって神経細胞の自発的活動が低下することにより、脳神経回路の組み替えを決定する信号が将来形成されるべき大脳皮質の「階層性」に沿って外的な環境要因へと切り替わり、これをきっかけに臨界期の連鎖が起きることが考えられます。近年では、発達段階において大脳皮質の抑制性神経細胞は、このような階層性に沿って成熟するという研究報告もあります。今後、臨界期の連鎖が自発的な神経活動の選択的低下を伴うか、自発的活動の低下を阻害することで臨界期の連鎖が止められるかなどの検証を進めることで、大脳の発達メカニズムの理解が進むと考えられます。今回提唱した理論は、脳の発達過程を示す基本原理の1つと期待できます。
原論文情報
Taro Toyoizumi, Hiroyuki Miyamoto, Yoko Yazaki-Sugiyama, Nafiseh Atapour, Takao K. Hensch, and Kenneth D. Miller. "A theory of the transition to critical period plasticity: inhibitioselectivelysuppressesspontaneousactivity", Neuron, 10.1016/j.neuron.2013.07.022
発表者
独立行政法人理化学研究所
脳科学総合研究センター 神経適応理論研究チーム
チームリーダー 豊泉 太郎 (とよいずみ たろう)
お問い合わせ先
脳科学研究推進室
Tel: 048-467-9757 / Fax: 048-467-4914
図1 本研究によって提唱された臨界期開始の理論から予測される神経細胞の入出力関係
本理論では抑制性神経細胞からの入力の増強によって、自発的入力(橙矢印)に対する神経細胞の応答が神経回路の組み替えに影響を及ぼさない程度にまで低下すると仮定している。この変化によって、臨界期以前(左図)には神経回路の組み替えが自発的入力と視覚刺激に対する入力(赤矢印)の両者に依存していたのに対し、臨界期中(右図)には視覚刺激に対する入力が神経回路の組み替えを決定するようになると予測できる。緑線は神経細胞の入出力関係を表し、青線は神経回路を組み替えるのに最低限必要となる神経応答(可塑性閾値)を表している。
図2 遺伝子改変マウスを用いた電気生理実験
抑制性神経細胞からの入力の弱い遺伝子改変マウス(GAD65KO)を用いて1次視覚野の神経細胞の自発的な活動とLED光刺激に対する視覚応答を計測した(左図)。これらのマウスに薬剤を投与して抑制性神経細胞からの入力を増強し、その前後の神経活動を比較した結果、視覚応答に対する自発的活動の相対的な応答強度が薬剤投与後に減衰することが分かった。